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2022.03.31
厳冬の津軽の農村で生まれた生活芸術
こぎん刺し

生きる知恵が生んだ美しい造形

藍染の麻布に、白い糸で幾何学模様が刺繍された「こぎん刺し」は、江戸時代、厳冬の津軽の農村に暮らす女性たちによって生み出された。
近世日本は、厳しい身分制度の中にあり、衣服においても定めがあった。弘前藩も例外ではなく、例えば絹をまとうことは武士とその家族以外には許されず、町人は木綿、農民は麻というような制約があった。農民に麻と木綿の併用が認められたのは、寛政2年(1790)のことである。

この厳しい状況が、こぎん刺し誕生のきっかけとなる。保温性、保湿性の悪い麻で布を織り、強度を増すために藍染にし、さらに白い糸で模様を施した。機能性を追求する中で装飾や美の追求が模様に反映され、独特の菱形模様が生み出されていった。

写真2点
ヴィジョン・オブ・アオモリ特別編「大川亮コレクションー生命を打込む表現」
撮影:小山田邦哉
提供:青森公立大学 国際芸術センター青森

こぎん刺しは、明治半ばにピークを迎えるが、木綿布の流通によって明治末期ごろまでに1度衰退してしまう。しかし、大正末期から昭和初期にかけての民藝運動の高まりの中で再び脚光を浴びた。
こぎん刺しの振興に尽力したのが、大川亮(1881―1958)。大光寺村(現・平川市)に生まれ、青年期には画家を志し、その頃、河井寛次郎やバーナード・リーチなど後に民藝運動の中心メンバーとなる人物たちと交流を持った。
その後1908、9年頃からこぎん刺しの収集を始める。これは民藝運動に20年ほど先駆けてのものだった。大正4年(1915)には、大光寺農閑工芸研究所を設立し、毎年数百円もの自費を投じてこぎん刺しを含む郷土工芸の保存と普及に努めた。

こぎん刺しはその後、工藤得子(1914-1993)、前田セツ(1919-1995)、高橋寛子(1925-2015)などの刺し手たちによって技術が受け継がれ、新たな展開が生まれている。
今日では、こぎん刺しのバッグやコースター、ボタンなど、身近なグッズも製作されている。自由な発想で制作する若手の作家も増えてきた。また、こぎん刺しを未来に記し伝えようと、こぎん刺しの専門誌『そらとぶこぎん』も2017年に創刊されている。
こぎん刺しを見つめると、津軽の風土に起因する。厳しさから生まれたものだからこそ、その知恵に、藍染めに施されたその紋様に、そこに芸術性が備わっていることに、畏敬の念を抱かずにはいられない。


〈参考アーカイブ〉
ヴィジョン・オブ・アオモリ特別編「大川亮コレクションー生命を打込む表現」
(2021.12.25~2022.2.13  国際芸術センター青森)
https://acac-aomori.jp/program/okawa/