(1)降りしきる雪 (2)ハロゲンライト が与えられたとせよ
今年も雪が多かった~!「世界一雪が積もる都市」として名高い青森市内における2022年冬の積雪は例年の3倍強、昨年比では1.5倍の量を記録したという(知人調べ)。日々の無限雪かきは言うに及ばず、太陽の光に反射する雪の白さが目に痛い。心と体にツラい…。青森に暮らして9年近くになるも、いまだ雪に慣れぬワタクシ。地元の方々には本当に頭の下がる思いだ。みんなどうやって雪と向きあっているんだろう。筆者の敬愛する美学者であり社会活動家の中井正一は、自らの左翼活動のため戦中に検挙され、取調室でみた降りしきる雪という「自然の秩序」に比して、あまりにみじめな「私達の世界」の秩序を思って涙したそうだ。右だ左だといって争うような余裕もない今日の現実生活の中で、そうしたナイーブな感性を働かせる余地はないが、雪、というものに対して自分なりの向き合い方を開発しておきたいのは確かである。我が精神の安定はその先に、ある。
ひとまず本稿では、雪と県立美術館の共通項たる「白」を取り上げ、白がもたらす経験が拡張された結果として、県内5つの公立美術館やアートセンターが連携して芸術祭的な共同プログラムを始動させようとする現在の状況がある、ということを一つながりに捉えて指摘したい。そうして雪からの「逃げられなさ」「のっぴきならなさ」を軸に地域におけるアートの価値を再発見するための端緒をつかみたいと思う。ええと。念のため言うけど、普通に好きです、青森。
県立美術館(以下、県美)で特に筆者が好きなのが、青木淳さんが県美の建築に託した「原っぱ」という特質である。そこは「使われることで『行われること』が生まれてくる空間」という。色々に解釈できそうだが、展示で使わせてもらっている身からすると、使うことで「その場所の魅力や価値が見出され、増えていく空間」という印象がある。建物の魅力を高める一因として展示活動も数えてくれているようで、なんとも、うれしい。
発掘現場のトレンチ(壕)状に掘り込まれてできた土の空間に白い構造体が「並びの悪い歯列のように、気ままに、隙間を持ちながら噛み合され」、そうして生まれた多孔質かつvoid的な空間は作品資料のジャンルレスな併存を許容し、そうした実験要素をも織り込み拡張してゆく建築空間としての魅力。特に地下1階の展示室Oに設置された巨大なガラス窓からは自然光が降り注ぎ、いっときここが館内であることを忘れさせる。中と外とが等質化された空間を支持体として、作品は作品らしさを保ちながら現実世界にひらかれていく。現実世界と美術館との「きわ」で建築は弱弱しくも強烈なプレゼンスを発揮する。そうして熱を帯びてちらつくハロゲン球の照明の下、展示室をさまよい歩く経験は、いつしか降りしきる雪のなか前後左右を見失い、自分たった一人しかいないような気持ちで世界をうろつき回るような体験へと遷移してゆく。県美と雪とが、白でもってつながっていく。
白は特定空間における鑑賞体験の平等性を導く。白はそのフラットさでもって鑑賞体験を既存の時空間から切断し、そうして氾濫する白は新たな場所との接続可能性をひらく。「新たな場所」とは何か。青森においてそれは、直接的には他の4館(国際芸術センター青森、十和田市現代美術館、八戸市美術館、弘前市れんが倉庫美術館)であろうし、その先には世界と世界を構成する事物全てがミュージアムとその展示品になり得る世界が広がっている。県美はそのための基点であり終点であり得る。少なくとも筆者はそうした県美の性質を応用させ、現実をオルタナティブなものへと変容させる手立てとして活用するべく、県美内アートプロジェクト事業である「美術館堆肥化計画」に取り組んでいるところだ。
ここで改めて思うのが、我が県におけるアート関係施設の多さである。「人口比における最適なアート関係施設の数」といった研究があるかないかは定かでないが、ここで、この状況について思うことを急ぎ書き留めておきたい。
美術館やアートセンターといった「作品を見せる場所」とは、視線を介した主催者や作者、鑑賞者といった複数の主体における政治的プレゼンテーションの場に他ならない。そうした複数の「視線の力学」が渦巻く場所=青森を考えるにあたっては美術批評家であるボリス・グロイスの著書『アート・パワー』(石田圭子ほか訳, 現代企画室, 2017)の議論が参考になる。例えば本書でグロイスは、政治的なプロパガンダや社会における運動に紐づいた芸術作品、すなわち社会の中で活きて働こうとするアートの価値を捉えなおそうとするが、ここでのアートにはある奇妙にアンビバレンツな力が働く。アートが機能しようとすればするほどにそのアートは社会の中に溶け込むことになり、結果としてアートとしての存在感は失われると同時に、そのことでもって逆に尊大なほどの存在感を発揮することになるのだ。社会運動を支持体としたアート展開が5館連携の中で示されるとは思わないが、ともあれ、そんなエフェメラルな(=儚い)形式を支持体とするところに現代社会におけるアートの成立条件の一つがある。あれ、これってもしかして雪の性質にもつながるのではないだろうか。なんてこった、雪なら売るほどある(それどころか最近は発電素材としての検討もなされている)本県においては、現代アートが興隆することは必然的な流れであった。そして空間が白でもって氾濫した結果「原っぱ」となった県美においては、そんな社会の中で活きて働こうとする現代アートの展開を許容し、現実のものとする素地が今日における芸術祭やインスタレーションの世界的流行以前から示されていたのである。雪と向きあい、格闘することは実はアートを考えることにつながっているのだ。雪にまみれる日々は無駄でなかった。ああ、有難や、有難や。
しかし5館連携はいったいどんな連携になるんだろう。願わくは連携と共に各施設の独自性がブーストされるような奥行きが欲しいところだ。連携による一体感であれば本県の雪=県立美術館の「原っぱ」性の中に既に十分に担保されている。連なるだけでは不十分だと思う。その差先で館の独自性を問うことがセットでなされなければならない。各館が立ち返るべきは既にある雪と各館の照明の白さの中に各々が何を見出すかということではないだろうか。そこにこそ雪とどこまでも向き合っていかざるを得ない青森という場所、そしてそうあるがゆえにアートが現実の中に広がり、働きなおす可能性がどこよりも強く表出する場所が価値として現れる。そんな気がしてならない今日この頃である。
奥脇嵩大(おくわき たかひろ)
青森県立美術館学芸員。さいたま市出身。京都芸術センター・アートコーディネーター等を経て2014年から現職。ミュージアムの諸活動やキュレーションの実践を手がかりに、形と命の相互扶助の場をつくることに関心をもつ。県立美術館ではこれまで企画展「青森EARTH」シリーズほかアートプロジェクト事業を主に担当。現在「美術館堆肥化計画」を進行中。